sanso114の日記

日々気になったことを気楽に書き留めています。

台風一過(エピソード21)・・・R2.2.12①

              エピソード21

 

 地元の南生中学校に上がってすぐに藤沢浩太は、親友の尾沢俊介の誘いで大して考えもせずにサッカー部に入った。小学校5年生の後半、引きこもったことがきっかけになって浩太は小太りで鈍重そうになり、6年生の間に背はかなり伸びたが、家の中で自己流のブートキャンプを張ったぐらいでは体形が改善されず、更に鈍重そうになった。思春期に入り、流石に自分でも何とかしなければ、という思いが強くなっていたのかも知れない。要するに、機は熟したと言うだろうか? 浩太にしては珍しく、あっけないほど決断が早かった。

 俊介は、名は体を表すということを具現するかのように小学校の頃から俊敏なところがあった。それに複雑な家庭ながら、経済的にはゆとりがあったので、奈良県北部地域の名門少年サッカークラブに所属し、少林寺拳法の道場にも通っていた。それが、地元の南生中学校のサッカー部がそれなりに熱心で強かったのと、サッカーへの情熱が以前ほどではなくなったのとで、中学校では学校のクラブでサッカーを楽しむことにしたようである。

 南生中学校サッカー部は顧問の山路輝彦のサッカー部と言ってもいいほどであった。始業前、放課後、休日と、授業以外のほとんどの時間を練習と試合に充て、山路はそのほとんどで行動を共にした。長期休暇中には合宿を行い、奈良県南部まで遠征した。ブログを立ち上げ、毎日のように更新し、練習日程を知らせるだけではなく、自分の熱い思いを部員達に伝えようとした。他にも顧問が居なかったわけではないが、山路がどうしても抜けられない会議、冠婚葬祭等の時に申し訳程度に来る補欠的な役目を担うだけであった。

 浩太は山路の熱血指導に引っ張られ、またそれを受け入れる素地も出来ていたので、どんどん走り込み、見る見る痩せて行った。4月だけで体重が10kg落ち、夏休みまでには更に10kg落ちた。元々不器用なところがあったからサッカーについてはそんなに期待されなかったが、長距離ではどんどん記録を伸ばし、2年生の夏休みには親友の優等生、西木優真に迫る勢いであった。

 優真の家庭は、俊介の家庭に落日の閉塞感が漂っていたのに対し、ゆとりと明るさに包まれていた。地域の少年野球クラブに属し、南生中学校では学校の野球部に所属した。優真は、持ち前の他を圧する集中力に、筋力、持久力を加え、南生中学校に上がった時点で既に、長距離走では向かうところ敵なしであった。

 2年の秋、学校の周りをアップダウンの激しい地形を利用した5000m走でのこと、浩太と優真は最後まで競り合い、とうとう浩太が抜き切るかと期待すると腰砕け。あっさりと優真に譲ってしまった。そんな柔弱さはあるが、もしゴールと制限時間がなければ何時までも走り続け、きっと優真の方が先に崩れてて、何れ浩太が抜くであろうと思わせる、底力が感じられるようになっていた。

 応援に来ていた母親の晶子が後から、

「あれ、もうちょっと頑張ってたら、勝ててたやん。何で頑張れへんの? そこがあんたのあかんとこやなあ~。まあ、ええとこでもあるけどな・・・」

 と言って、ちょっと悔しそうであった。

 しばらくして浩太はボソッと、

「そやけど、優真の顔を見たら、余裕がなくなってたもん・・・」

 欲がなく、あれだけ苛めに苦しんだのに少しも歪んでいない浩太を、晶子は誇らしく思った。そう思うことで自分を納得させた。

 それはまあともかく、欲のなさも手伝ってか? 学業成績の方は全く振るわず、下位10分の1辺りで上下していた。平均には程遠く、2年生の時点で既に、行く高校はない、とまで言われていた。

 内申書に関係するのが2年生の後半からで、その頃、周りは既に塾に行き始め、行っていない方が数えるほどであった。学校の方でも塾での勉強を見込んで授業が進められていた。

 父親の慎二は、自分が塾に行くことなく、幼稚園以外大学まで公立で通したので、それが普通と言う認識から抜け切れなかった。そこに、高度経済成長期以後のゆとり教育の流れを都合よく取り込み、のんびりさせておく方が後々を考えると好いと信じ切っているところがあった。それに自分の趣味のオーディオ、パソコン等の電子機器にお金を使いたかったから、本人から強く望まない限り、塾に行かせる気は毛頭なさそうであった。

 元々普通教科に苦手意識のある晶子には、慎二の意見を覆すほどの強い意志はなかったから、浩太は放っておかれたままであった。

 それよりも浩太は、2年生になる頃から、もしかしたら知的なところで微妙なラインにいるのかも知れない、と疑われた。事実、2年生の秋頃になると、同レベルにいる生徒の何人かは判定を兼ねて市の教育センターに連れていかれたと言う。そしてその内の半数はK式等の発達検査を受け、そのまた半数は一部の教科を特別支援学級で勉強することになったそうだ。

 浩太は自分が知的に境界線より下に入るとは思わなかったが、慎二や晶子は、もしそうであってもおかしくないような気になっていた。

 ただ、普段話している様子や、成績が時々少しの梃入れでそれなりに上がるところを見ると、そうでもない気もする。

 刺激を与え、反応を見ては安心しかけ、ある程度以上は上がらず、また下降し始めることから、慎二は相談に行くかどうか、1年ぐらい迷い、結局、2年生の冬になってからようやく生駒市の教育センターの門を潜った。

 センターには慎二と浩太で訪れ、それぞれに相談員が付いた。

 慎二に付いた相談員はこれまでの多くの経験から判断して、がさがさと落ち着きのない浩太を観て直ぐに、明らかに問題があるように思えたようだ。直ぐにでも判定を受けるべきだと判断した。

 一方、浩太に付いた相談員はもう少し落ち着いた人で、じっくりと話を聴き、それが好く作用したようである。終わってから浩太が安心した顔になってトイレに行った隙に、慎二にそっと顔を寄せ、深くて真摯な目で、

「お父さん。必要ありませんよ」

 と声を落としながらも、はっきりと言った。

 それが好かったのか? 悪かったのか? 浩太は落ち着きを取り戻し、3年生に上がるまで3回通い、多少成績の上昇が見られたが、夏までにはその神通力も消えていた。

 夏休みに入って、とうとう慎二も心を決め、浩太を奈良県で少しは名の通った蛍光義塾に入れたが、後の展開は既に述べた通りである。一進一退を繰り返し、ぎりぎりの時点で何とか持ち直して、公立の底辺校、奈良県立西王寺高校に入れた。

 集中的に塾代に使ったのが70万円ほど。慎二は今でも時々、思い出しては、

≪ほんま、惜しかったなあ~。あれだけあればもっとええAV機器やパソコンが買えた。それにアイドルのCDや、韓国ドラマのDVDも変えたのに・・・≫

 と本気で惜しがっている。

 それを聞いて晶子は、ただ笑っているだけであった。

 しかし今、晶子がネットや近所のホームセンター、ショッピングセンター等で買い物三昧しているのを見ても、慎二とそう変わらない思いであるようにも見える。

 

        優しさとゆとりが矛を鈍らせて

        攻撃の手を緩めるのかも