sanso114の日記

日々気になったことを気楽に書き留めています。

台風一過(エピソード12)・・・R2.2.3①

              エピソード12

 

 藤沢浩太にとって西木優真は勉強、人生の目的、目標を考える等、正の面において大恩人であり、雲の上の人でもあったが、スポーツでは長距離において接点があった。

 ただ浩太は得意な長距離でも、競うより、知らない街を駆け抜け、景色、空気と言ったものに浸り切るのが楽しみであった。そして中学校2年生の後半には、それが出来るぐらいの持久力を付けていた。

 この持久力が勉強の方にも生きて来るにはもう1年待たねばならず、それまでの間、教師や親を心配させ、教師は他の見込みが分かり易い子たちに掛かり切りになることを言い訳に、早々と諦めた。

 授業において、しばらくは補助教員が付き、浩太を含め何人かの理解を助け、その内、ほとんど浩太に付きっ切りになったが、その緊張感に耐えられなくなったのか? それとも元々分からないことの連続で頭が弾けてしまったのか? 理由はともあれ、授業が始まると程なく、ブレーカーが落ちたように寝てしまうようになった。そして、支援チームに選ばれた教師たちはそれを理由に、ごく自然に付かなくなった。

 その期間は、父親の慎二や母親の晶子からすれば、ほんの僅かな時間のように思えた。ようやく対策を取ってくれたかと喜んでいたら、えらくあっさりと諦め、潮が引くように置いてけぼりにされてしまったようである。

 2年生の学年末における懇談では担任から何処に行けるとも示されず、行けるところがあるのなら勝手に探しておいで、と言う感じであった。かえって、行き場所はあるのか? 探しているのか? と聴かれる始末で、大阪出身の慎二と晶子は答えようがなく、黙って聴いているしかなかった。

 暗に、この子、どこかにおかしいところでもあるのではないか? と迫られているような気もし、慎二は自分から、市の教育相談所に連れて行こうと考え始めていることを伝えた。

 案の定、担任は一つも異議を挟まず、それが好いですね、と言う感じで、安堵の表情を浮かべた。

 浩太の方も、自分なりに幾ら頑張っても一進一退。慎二や晶子に、「大丈夫と思うけどなあ・・・」とは言って来たものの、自信がなくなって来た。おまけに、自分と同じようなレベルにある何人かは既に市の教育相談所に連れて行かれたと聞くし、先日、友達の尾沢俊介もとうとう連れて行かれたそうだ。

 幸い何の異常もなく、後から、「積み木を見本の通り積まされたり、色を塗らされたり、幼稚なテストをされただけやったわぁ~。フフッ」と笑いながら言っているのを聞き、ちょっと安心していたのだが、もし判定を受けると、果たして自分もそうなのかどうかは分からない。

 

 行ってみた結果はどうと言うこともなかった。思春期の入り口で家庭も含めて色々あり、不器用と言うか、感じ易いと言うか、そんなこんなでちょっと寄り道したようである。これが好い面を出すにはもう少し時間が掛かり、きつい時間制限が設けられている(かのように見える?)受験期には痛かった。後から考えてみれば、多分そんなことなのであろう。

 ただ、その時点で不利であったのは事実で、能力なりの学力を付け直し、その学力に相応しい場を得る為に、時間は勿論、集中的な個別塾代等のお金、そして何より、親友の西木優真の、ときには自分を置くほどの親身な協力を要した。

 優真は、今の時代には珍しいほどの利他的な行為がごく自然に出来る、優しく、真面目な少年であった。親の訓育が好く、思春期を超えて青年と言う方が相応しいような落ち着きと余裕があった。

 流石に、目指している全国レベルの超がつくほどの進学校西大寺学園の受験が直前に迫った最後の追い込みの時期には母親が止めたようだが、それでも勉強会と称する集まりの頻度が少し減っただけである。自分の入試を無事終えてからは、浩太と俊介の勉強を看るのに掛かりっ切りになってくれた。

 学校の方では相変わらずであった。俊介に続いて、浩太が全国的に有名な個別指導塾、蛍光義塾に夏休み中から行き始めて3か月。中間テストと実力テストで幾つかの底辺校に対する合格率が何とか二桁に上がり出してからようやく、

「浩太。定時制やったら行けるかも知れんなあ・・・」

 サッカー部の顧問、山路紀彦がそう声を掛けてくれた。

 担任は相変わらずで、2学期末の懇談において慎二が、昔していた受験関係の仕事の経験を生かして、テストの結果とインターネットによる偏差値の情報を元に弾き出した判断を示したところ、それに消極的に同意を示してくれただけであった。

 慎二にすれば、理科教師の担任が同じような学歴の自分を立ててくれただけのようにも思えたが、併願の私学、南都学園高校を挙げたときに、同じような年収の自分を心配して、「ところで、学費の方は大丈夫ですかぁ~?」と聞かれたことのみが一番親身に感じられ、何となくプライドが傷付けられたようでちょっと応えた。

 それはまあともかく、蛍光義塾も、実は南都学園も、そして本命の県立西王寺高校も、全て俊介の紹介であった。勉強は置くとして、世間の波を読み、迷いなく選んで行く世渡りの術(すべ)は、小さい頃から苦労しているだけあって、俊介が一等抜きん出ていた。

 聴いてみると俊介は、半端じゃなく苦労して来たようである。

 元々俊介の家は造り酒屋を営んでおり、地元でも有数の資産家であったらしい。

 らしいと言うのは、今ではその酒屋も閉じ、ひっそりと暮らしているように見えたからである。

 ただ、小遣いの額を聞くと、月に何万円も貰っていたり、中学2年のときには既にスマートフォンの最新機種を使いこなしていたりするところから考えてみるに、経済的にはまだ相当余裕がありそうである。

 ただ、父親が精神的に患っており、その陰には母親の失踪があるようだ。

 俊介はよく、「小さい頃から父親はよく飲んだくれてなあ、母親や自分に乱暴を働いたんやぁ~」と言う。

 背中の火傷の跡や頭髪に隠された頭頂部の幾針もの縫い目を見せられると、父親が先に病んでいたように思われる。

 しかし、母親が当時はまだ営んでいた酒屋の若い杜氏と共に駆け落ちしたと聞くと、男女の機微などほど遠い世界にいる浩太は、母親が原因かとも思ってしまう。

 いずれにしても、母親が居なくなった分、父親は更に荒んだ生活を送り、酒屋はすぐに畳んだそうだ。今は時々働きに出ては、後は蓄えで食べていると言う。

 母親が出て行った当時、俊介はまだ5歳。流石に何も出来ず、6つ上の姉が、ときには台所の土間から高い流しに背伸びをしながら、必死になって家事をしていたそうだ。
小学校の4年生になった頃からは俊介も手伝うようになり、姉が高校卒業後すぐに家を出てからは、兄と共に家事全般をこなしている。

 流石に、ときにはぐれて、兄弟共に一時的に不良の世界にも入っていたと言う。

 確かにその頃の俊介の目は荒み、俯き加減で光を消していたから、けんがあった。

 しかし、生駒のような大阪のベッドタウンに屯する不良グループなど甘ちゃんの集まりで、すぐに飽き足らなくなり、少林寺拳法やボクシングなど、格闘技の世界を覘いた。

 父親の暴力に負けないように、と考えたのかも知れない。

 結局、優しい子だったのか? サッカーとの出会いが俊介を落ち着かせたようで、中学校に上がる頃には地元で多少名前が上がるぐらいの選手になっていた。