sanso114の日記

日々気になったことを気楽に書き留めています。

台風一過(エピソード11)・・・R2.2.2②

              エピソード11
 
 思春期を前にした男の子は、本当の父親に飽き足りないとき、外に理想の父親を求めるものだと言う。そして現実の父親は、家庭においては気を緩め、テレビに齧り付いていたり、酒で憂さを晴らしていたりして、まあ、あまり格好良くないのが普通であるから、大抵は外に理想の父親を求めることになる。

 父親も人間であり、外で7人の敵と戦って来た疲れを家庭で解放し、癒しを求めるのは当然のこと。それが可能な家庭は正しく機能しており、むしろ喜ぶべきで、それが分かるのは自分の問題が片付いてからのことである。思春期を前に自分が何であるかと言う根源的な問題から揺らされている子に理解を求めるのは到底無理な相談であった。

 と言うわけで、小学校の6年生になってようやく穴倉生活から抜け出て1年。無事に地元の中学校に上がった藤沢浩太もごく自然に、外に理想の父親を求めることになる。

 家庭での父親、慎二はそんなに理不尽な親でも、乱暴な親でもなかったのであるが、韓国ドラマや書き物にのめり込み、ほとんど自分の世界に浸っていた。浩太の痛みや不安をしっかりと受け止めてくれるには少々雄々しさが足りなかったようである。

 入学して直ぐに親友の西木優真、尾沢俊介の誘いでサッカー部に入り、先ず部顧問の山路紀彦との出会いがあった。

 この先生は非常に面倒見がよく、生徒達がよく慕っていた。ほとんどの休日を返上して朝早くから生徒達に付き合っていた。いわば、クラブが第2の家庭のようになっていた。

 元々教師と言うものは年がら年中、元気盛りの子どもたちと付き合い、その分、気が若く、一般社会に比べて純粋性は保たれるのかも知れないが、幼さも残りがちである。

 それにクラブと言うものは同好の士が集まる気の置けないところ。その面でも家庭との強い類似性があり、癒されもするが、気が緩みもする。

 そんなこんなで、山路は浩太より2回り上でも、父親と言うより兄貴であった。勿論、浩太の人間形成において大きな作用を及ぼしたことに疑いはないが、理想の父親としての面ではあまり機能しなかったようである。

 明らかに気になる存在として浩太の人生劇場に登場したのは、謎めいた中国武術家、周豪徳であった。

 出会いはインターネット。中学校2年生の夏休みのことである。大阪市内の忍者グッズ店、卍屋、奈良市内の土産物屋、鹿野屋等で、ゴムや樹脂製の手裏剣、日本刀の模擬刀等を物色し、安物を幾らか買い漁っている内に目に留まった。韓国時代劇で使われている刀や槍によく似た模擬刀が紹介されていたので欲しくなり、意外と近くに店まで構えているとのことで、一度行ってみたくなった。周にも直接会ってみたくなった。

 何でも、中国武術で用いる模擬刀、槍、稽古着等を中心に、扇、笛、太鼓、仮面等、色んな中国物産を、ネット販売を中心に、店頭販売も行っているらしい。

 もっとも、店頭と言っても名ばかりで、心斎橋を西に少し外れたところにある小さな雑貨店の2階を間借りしていた。3坪ほどのスペースに所狭しと天井まで積み上げてあるそうだ。いわば倉庫のようなものであった。周は普段、ここには居らず、武術指導に彼方此方の道場を回っているが、メールで連絡を入れておけば店で待っていて、相手をしてくれると言う。

 慎二によれば、華やかな心斎橋も少し外れると、昼間はどんよりとして、夜になるにしたがって生き返るような、素人1人で歩くのは躊躇われるところもあると言う。インターネットで調べた住所から考えて、どうやらそんなところにありそうだ。

 どうしようかな? でも、もうメールで連絡してもうたし、行くしかないか!? それに真っ昼間にちょっと行くぐらいどうってことないやろ?

 中学校に上がった頃なら迷わず行かなかったであろう。

 しかし、2年生になってからは慎二にネットショッピングを許され、独りで大阪や京都まで出て買い物を楽しむようになっていたから、大きな不安はなかった。

 かえって慎二や母親の晶子の方が不安がっていた。今までならばネットショッピングから店頭に出向くようになっても、精々店員としての付き合いであったから、人との出会いとは捉えていなかった。それが今度は、買い物の楽しみは否定出来ないにせよ、店主自体に強い興味を持っているようなのだ。

 しかし、店のホームページや周のブログ等をじっくり読んでみると、強ち悪い人にも思えない。

 迷った末、慎二は見守ることにし、何時も通り晶子もそれに従った。

 周豪徳は号のようなもので、本名は田島一平。平凡な名前であったが、目は底光りし、力があった。背は浩太より10cmぐらい低いから、慎二ぐらいか? しかし、胸の厚みが違い、腕や脚の太さ、締まり具合が違った。如何にも武術家と言う風情で、浩太は先ずそこに惹かれた。

 話を聴いてみると、若い頃、相当やんちゃをしたそうで、晶子と同じ泉州の出であった。それだけで身近に感じられた。

 あるとき浩太は意を決して周に、気になっていた高校受験のことを話してみることにした。

「あの僕、今、高校に行くかどうかで迷てますねん。成績は最低やから、無理して行けたとしてもどうせ底辺校やろし、行っても意味あるかどうか分かりませんし・・・」

 周は暫らくしてから、じっくり受け止めた風にぽつりぽつりと話し出す。

「そうやなあ・・・。実は僕も大阪で底辺校にランクされる高校にようやく入ったんやけど、世間で言われるほどで悪いとこでもなかったなあ・・・。勉強は大して出来んかったけど、ええ先生も結構いたし、一生付き合えるような友達も出来た。可愛い子が何人かおって、その内の1人が今の嫁さんやぁ~。フフッ。行っても損はないと思うでぇ~」

 そんな話をしんみりとしてくれ、更に親近感が湧いた。

 それからも行く度に聴いた幾つもの武勇伝、挫折、立ち直ってからの想像を絶する修行等の話にも胸躍らせた。

 そして機会ある毎に浩太の話を親身になって聴いてくれ、何とか高校だけは出ておくようにと言われたときは、誰からのアドバイスよりも素直に聴くことが出来た。

 以後も何回か足を運んでいる内に聴いたところでは、周豪徳と名乗っているのは中国武術家であることより、安全の為の方が大きいらしい。本名の田島のまま中国本土を歩いているときは危険なことも多かったようで、路地や物陰に入ると、何度か襲われたそうだ。武術の心得のお蔭で大事には至らなかったが、それでも頬や腕に残る刀傷を見せられたときはゾッとした。

 それでもめげずに機転を利かして生き抜く強さ、あざとい中国商人と互角で渡り合い、中国物産を販売し続ける器の大きさを感じるにつけ、浩太はすっかり周の虜になっていた。

 しかし、慎二や晶子が心配するほどのことはなく、周は浩太を無難なところに導いてくれたようである。人生の方向性を正す助けにはなったが、適当なところには教室がないからと言う理由で武術指南はあっさりと断ったそうだ。

 浩太もそれで好かったようである。一時は寂しそうに見えたが、やがて低学力ながら受験勉強一色になり、底辺にせよ県立の西王寺高校に無事受かった後は、既に述べたように弓道部での生活が始まることになる。思春期から青春への過渡期でもあった。

 

        子ども等は理想の親を求めつつ

        思春期の波乗り越えるかも