sanso114の日記

日々気になったことを気楽に書き留めています。

台風一過(エピソード1)・・・R2年1.26①

             エピソード1

 

 通り過ぎる気がないのか、至極ゆったりとした台風である。空を見上げても、重苦しそうに垂れ込めるどす黒い雲の塊が、まるで台風であることを忘れたかのように、週末から少しも動こうとはしない。その所為で台風による休校が土日を挟んでいたから、鬱陶しくとも、それなりにのんびり出来た。夏休み呆けがまだ抜け切っていない藤沢浩太の心身にとっては正直言って有り難かった。

 一方では寂しくもあった。勉強嫌い、学校嫌いの浩太ではあったが、この頃学校にいることが必ずしも嫌ではなくなりつつあったからである。

 勿論、合格ラインすれすれで入った割には、1学期の2回の定期試験において、何れでも上位4分の1に入れたことが大きかったのであろう。奈良県でも最底辺校と言われる西王寺高校にもかかわらず、入れるかどうか、中々自信を持てなかった1年間は、今の台風以上に重苦しい暗雲であった。それをようよう振り払えたのみならず、十分以上に遠ざけられたのであるから、元々欲のない浩太にすれば、今までにない清涼感、そして幸福感であった。

 が、それより何より、近くにいるだけでもふわふわと浮き足立ってしまう確かな存在に気づき、学校に行けないことが少なからず残念でもあったのだ。かつてなかった感情であるだけに、浩太は少々持て余し気味ではあったが、避けたいと思う気持ちも、爪の先ほどもなかったのである。

 きっかけは5月の連休明けに行われた宿泊研修にあった。

 研修と言っても、近くにあるユースホステルに皆で泊まって仲良くなるのが主な目的で、それもたったの1泊である。訓練らしきものとしては夕食が飯盒炊爨であったことぐらい。気楽なもので、普段から家族の一員としてごく自然に家事を引き受け、長期休暇毎に家族で行うキャンプに慣れ親しんで来た浩太にすれば、日常生活の延長か、精々遠足の延長のようなものであった。

 ただ、そのときのことである。日常とは大きく違う、言わばお祭りが、浩太の中では確かにあった。夕食後のキャンプファイヤーをリードしていた国語教師、そして弓道部顧問でもある安曇昌江の溌剌とした様子が、浩太の胸に強く焼き付けられたのであった。

 昌江は普段物静かで、如何にも国語教師然とした、更に日本古来の武道を嗜む者然とした、穏やかでありながら芯に凛としたところを窺わせる表情を崩すことがなかった。

 一方、これまでの浩太における唯一の女性像である母親の晶子は、薄味で有名な大阪生まれではあったが、九州生まれの祖父母の熱くて濃い血をそのまま引いており、静かなのは病気のときぐらい? それも、ちょっと苦しければ、この世の終わりであるかのごとく大騒ぎするし、寝ているときでさえ、やけに滑舌のいい寝言、洞窟の奥底から響き渡って来るような鼾、甲高くキレのある歯ぎしりの三重奏で、騒がしいことこの上なかった。起きていればともかく明るく、寝ていてさえすこぶる付きの賑やかさであった。

 よく言えば、日々出し切っている分、裏が全くないので、晶子とは安心して一緒に居られたが、その分、深みは感じられなかった。そこが昌江とは信じ難いほど違い、浩太は昌江と顔を合わせる度に少なからず揺らされるようになっていた。

 そんな下地があった上に、これまでの結晶化されたマドンナ的な印象からは想像もつかない、弾むようでまばゆい、生きのいい姿を目の前にして、止めようもなく揺らされ、ぐいぐい惹き付けられたのである。

 とまあ、思いつく限りの理由を述べ立ててみたが、正直に言ってしまえば、人を好きになるのに理由などあるようでないようなものである。気になり出せば、物静かであろうが、賑やかであろうが、何であれ揺らされるもので、それが恋である。縁がある、馬が合う、相性がいい、気が合う、というようなことだ。

 しかし人を好きになると、同時に、嫌われる、或いは誰かに奪われるというような失愛の不安も訪れる。幾ら避けたくとも、誰でもが必ず陥る迷宮である。何かを得れば何かを失う、2ついいことはないものよ等とよく言われるように、今回の場合でも浩太は、昌江のことを請い求める高揚感と共に、遣る瀬無さ、切なさといった感情に気を揉むことも覚えた。

 たとえば、宿泊研修中の夜、就寝時間を大分過ぎた頃のこと。何時もとは違う状況に気が弾み、また神経が立って、とても言われるまま静かには寝ていられなかった。それでも浩太は、何度も寝返りを打ちながら、蚕棚のように狭い寝床に何とか収まっていたのであるが、寝床を離れるだけでは飽き足らず、割り当てられている部屋まで堂々と抜け出た男子生徒がいた。

 浩太と同じ部屋の間宮涼である。名は体を表さない奴で、ちっとも涼しくなんかはない。何かと言っては騒ぎ立て、その後、抜け出して煙を補給する、他人の物を無断で拝借する、その他諸々のことを含めて、教師からすれば真に面倒な奴であった。このときも、夕食後にトイレで隠れて補給した煙が切れたのか、余計に落ち着かなくなったようだ。

 しばらくして、その涼が目を異様に輝かせ、鼻をひくひくと蠢かせながら戻って来た。何か言いたくて堪らなかったが、皆を驚かせようと何とかここまで我慢して来たようで、今にも言ってしまいそうな感じで口をもごもごさせている。

「おい! どうしたんや、間宮?」

 部屋長を仰せつかった後藤杉郎である。就寝時間の10時半を過ぎ、一旦寝床に入ったら、それなりの理由がない限り出てはならず、まして部屋を出るなどもっての外である。そのルールを破ったら先ずは部屋長が怒られるから、既に日が変わってしまつた今、ちょっと言い方が神経質になっている。

「ちゃうって!」

 何がちゃうのか分からないが、自分には部屋を出て行った正当な理由があると、涼は言いたいらしい。

「何がちゃうってやぁ! ほな、どういう理由なんか、正直に言うてみぃ。取り敢えずその理由とやらを聞いたるわぁ。もし大したことがなかったら承知せえへんでぇ!

「何や取調べみたいで、偉そうやなぁ~! まあええけど・・・」

 立派な体格を見込んで任された部屋長の杉郎には逆らえないと踏んだ涼は、取り敢えず理由を大人しく説明することにした。

「あんなあ、さっきのキャンプファイヤー、仕切ってた安曇、おるやろぉ?」
「安曇がどうしたってぇ~?」

 浩太も興味を引かれたので、寝たふりをしたまま、耳だけそばだてた。

「うん。あの溌剌として爽やかそうな安曇がやなあ…」

 そこで間を置き、気を持たせて、部屋の皆の顔を見渡し、十分に効果があったと思ったか、にやりとして涼は続けた。

「な、何と! あの左近寺の狒々爺と一緒にしっぽりと・・・」

「こら、嫌らしい言い方するな!」

 杉郎も昌江のことを、浩太に負けず劣らずマドンナのように崇め、これから登場人物が2人だけのいい夢でも見ようと思っていたから、本気で怒り出しそうな勢いであった。

「まあ、そんな風にいきり立たんと聞いてえやぁ。ほんまやてぇ! しっぽりと、かどうかは別にして、暗がりで肩を寄せ合い、何やらささやき合ってたとこまではほんまやでぇ。左近寺が何か小さな物を渡しながら、今晩どう? とか何とか迫り、安曇の奴は、先生、いけません・・・、 とか何とか言って困った顔をしながら、嫌よ嫌よも好きの内。次第に距離が縮まって行き・・・。もうあかん、あれは絶対出来てるわぁ~!?」

「こら、何があかんやぁ! ほんまにそんなやりとり、あったんかぁ~? 勝手なことを付け加えて妄想を膨らませたらあかんでぇ!」

 ボコボコ、ボコン!

「痛っ! ほんのちょっとだけ想像を入れて言うてるだけやのに、本気でどつくな! そんなことするんやったら、しまいに和泉に言いつけたるどぉ~。そしたらお前なんかすぐに停学やからなぁ・・・」

 和泉とは生徒指導の和泉丈太郎である。背は浩太より3~5cmは低く、180cmはないだろう。年齢を考慮しても特別に高い方でもなかったが、レスリングで鍛え上げられた胸板の厚さは半端ではない。筋トレが趣味になりつつあり、胸囲100cmと、高校生にすればそれなりにあるはずの浩太と比べても、優に1.2、3倍はありそうに見えた。その和泉から何度か熱誠指導を受け、身に染みている涼は、本気で怖がっているようで、脅しのように言いながらも自分が震えていた。

 見たままの怖さは十分に分かっていても、和泉に叱られるようなことを自分がするとは全く思っていない浩太は、本気になって聞いているのが馬鹿馬鹿しくなって来たので、布団を頭まで被って、本当に寝ることにした。

 その時はたったそれだけのことであったが、その後も、昌江が誰かと一緒にほんのちょっと親密そうにしているところを見たり、噂に聞いたりしただけのことで、途端に落ち着かなくなる自分を浩太は受け止め難く、ひどく戸惑ってもいた。そして、昌江と少しでも離れていなければならない時間が切なく、あの重苦しい台風を孕んだ雲と共に何とか振り払えないものかと、遣る瀬無さに身悶えする思いであった。

 

        野を分けて人恋う気持ち運び来る
        風の悪戯切なくもあり